メトロニュースメニューへ
今月のTOPへ ブクブクコラム
版元さんリレーエッセイ 編集長の読書日記

 その14 草思社営業部 H・K様 
 

 誰でも本のタイトルが気になってしょうがないという経験があると思う。出版社に就職してすぐの頃「人間開業」というタイトルの本が気になって気になって、体に悪そうだったので買うことにした。
 一行目からすごい。
「アレクサンドル・ワホウィッチは、俺の親爺だ。親爺は露西亜人だが、俺は国際的な居候だ。」
 これが目に飛び込んだ瞬間、自分の直感が正しかったことと、まもなくこの人の全集を揃えてしまうことを確信した。この人とは大正から昭和にかけて活躍した異色の作家、大泉黒石である。「人間開業」はその壮年期までの自伝である。
 
 昭和四十年代のサラリーマンもの喜劇映画などにでていた名脇役大泉滉の父親といえば、知っている人もいるかもしれない。この親子は実によく似ていて大泉滉の顔にロシア色を濃くすると黒石になると言える。
 
 顔はそっくりだがお洒落でキザでそのくせ気の弱いお人好しといった役柄の多かった息子と正反対でこの黒石が滅法荒っぽい。金釘流の文字というのがあるが、金釘流の文章で江戸っ子の啖呵を聞くようなリズムと爽快さがある。実際黒石の全盛期には荒っぽい文章で書くことが黒石ばりと言われたらしい。
 
 で江戸っ子なのかというと長崎なのである。ロシアの外交官とロシア文学研究をしていた母との間に生を受け、幼くして両親と死別したことでロシアやパリで幼少期を過ごしたあと長崎にかえり鎮西学院を卒業している。鎮西のあと三高と一高(京大と東大の教養課程)に両方通いながらどちらも卒業していないのもなんだか黒石っぽい。三高の頃、新聞社の文芸担当某国太郎という人に荒っぽい文章を添削され、簡単に白旗をあげているが、どうも心底ばかにしている節がある。ロシアにいた時には近所で老人となったトルストイに会ったことがあるらしいが、爺さんよばわりで尊敬しているふしはない。
 「老子」というベストセラーで一躍流行作家になった後もいわゆる文壇とは付き合いがなく、高橋新吉、辻潤といったいずれ劣らぬ私好みの奇人と前橋の書店人だった萩原恭次郎を伊香保温泉に連れ出して豪遊し、何日も無断欠勤させたりしていた。
 
 圧巻は友人が恋人にしようとしていた美代(作中では三輪)という女性が長崎の八幡宮の門前町での幼なじみだったことが判ったときで、「おれは恋という字は嫌いだから」の一言で次の行では結婚していたりする。一体どこの世界に恋愛を端折ってしまう自伝があるか、大正時代の日露混血の文士の結婚である、実際周囲の猛反対にあったらしいが、恋という字は嫌いだからで優に本一冊は書けるだろう紆余曲折を飛ばしてしまう。本当に凄い。
 
 長崎で終生暮らした作家ではないので地元で愛読されているわけではないが、これほどの痛快無比の異色の作家を誇っていいのではないだろうか。ちなみに後半生の自伝は「人間廃業」である。
 
 とここまで持ち上げておいて無責任なのだが、黒石全集の出版社緑書房のホームページで確認すると全九巻の第一巻目「人間開業」だけ品切れらしい。失礼。


★プロフィール
1962年2月16日生
趣味 渓流ミノーイングという釣り (長崎ではやってる人ほとんどいないと思う。) ルアーも自作して同好者に配ったりしているため、      釣り営業と言われている。

自慢 幼少の頃、最後の私小説家といわれた川崎長太郎を何回か目撃している。
(ズボンの尻のポケットから手ぬぐいぶらさげて飄々と歩く爺さんでした。)(牧野信一と川崎長太郎は故郷小田原の作家として敬愛しています。)

スコット、パラーゾの頃からスワローズ贔屓。


★編集部より:K様ありがとうございました。大泉黒石はMMCでも取り上げられた作家でしたが、「黄夫人の手」という短篇が舞台も長崎でしかもコワーイ作品。詳しくは、MMC文庫(2月刊行)にてご紹介いたします。


今月のTOPへ