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編集後記 編集長の読書日記
メトロ書店会長・川崎清がちょっとひと言…
東京帝国大学機械工学科

 私は昭和6年に入学して9年の卒業まで3年間、表記の大学で学んだ。当時は、今と違って大学といえば東京、京都、東北、九州の四帝国大学の他、北海道大学、早稲田大学、慶応大学、明治大学など数える程しかなかった。そのかわり専門学校がたくさんあって、その両方合わせて戦後の大学制度となったのである。
 
 昭和7年か8年の事だったと記憶するが、東京上野で科学博覧館が開かれて、我が国初めてのテレビジョンが放送されるとのことで我々学生は期待を込めて見学に行った。画面は今の14インチテレビよりもっと小さく白黒で画面にチラッと顔が写ったかと思うとすぐ消える。チラチラしてとても実用にはならないが、少なくとも映像を送った事だけはまちがいない。実はこの日本で最初にテレビジョンを開発した人は静岡高等工業学校の高柳博士と言って専門学校の教授である。専門学校としては、北九州には明治専門学校とか、仙台には東北学院とか産業と結びついたがっちりした学校がたくさんあって、それが企業と提携して技術の発展に励んでいたのである。
 
 そこで我々の帝国大学のほうは産学共同というよりはむしろ基礎学問に力点をおいて研究され教育もされたようである。機械工学科の科目として例をあげると、熱力学・機構学・力学・水力学・蒸気機関・内燃機関といったようなものを中心としていた。これらの必須科目だけで24科目もあり、これを2年間で単位を取り、3年になると卒業論文を仕上げなければならない。その頃のエンジンは未だ蒸気機関が主流で、特にタービンが中心であった。やがてガソリンやディーゼルエンジンなど内燃機関が出現してきてその研究が加わったことは言うまでもないが、未だ主力にはなっていなかった。国産自動車はダットサンや日立など色々の会社が手掛けてはいたが、なかなか国産という域には達しなかった。
 
 そのくせ東京ではタクシー(円タク)がもう走っていた。その後三菱自動車や中島航空機などが研究を始めて我が国の自動車・航空業界もしだいに底辺が拡張されていったのである。しかし遂に第二次大戦までに日本の内燃機技術のレベルは欧米に及ばず敗戦の憂き目をみることになったのである。私達の学友も卒業するとそれぞれそういう企業に行って内燃機の開発に力を入れたのである。有名な零戦闘機や戦後活躍したYSU機などにも私たちの同窓生が参加している。僕は卒業すると国有鉄道へ進んだので、やはりそれなりの面で国に貢献することになった。
 
 私たち機械工学科の同級生は80人だった。昭和9年の卒業だから『九機会』と名付けて卒業してから今年まで66年間、毎年集まって親交を続けた。数日前、長年世話をしてくれた幹事の人から「会員も14名に減ったし、健康を損ねている人も多く集まるのが無理になったのでここで同窓会を閉じる事にしましょう。ついては、会費の残りのお金を現金書留で送ります。『有難く』お受け入れ下さい。」と、1万数千円送って来た。

 この『有難く』の2字に、私は66年間の交友の万感の思いが込められていると感慨無量であった。

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